この度、赤々舎では川崎祐『光景』を刊行しました。
『光景』において、川崎は、自身の家族と故郷である滋賀県長浜市の風景を撮影しています。
およそ6年の歳月をかけて撮影された『光景』において川崎は、
「家族写真」と「故郷写真」という手垢にまみれた被写体をモチーフにしながら、
それを逸脱させて、まったく新しい「家族写真」と「故郷写真」を創造することを試みています。
まず目に止まるのは独特な存在感を放つ家族の存在です。
異様なまでにクロースアップで撮影された家族の姿からは、
私たちがふつう「家族」という言葉から思い巡らせる関係性や距離感は失われています。
しかし、その過剰な「近さ」は、作者にとって自分自身の存在と不可分になってしまった
「家族」の持つ意味の大きさや不可知をまざまざと伝えます。
親密さや関係性という言葉によっては捉えようのない未知なる「家族」のイメージがここには映し出されています。
一方で、家族を写した写真の持つ「近さ」とは対照的にも見える故郷の風景。
親しさからもノスタルジーからも程遠い、いわば「郊外」的な景色は、
現代を生きる私たちの多くが束縛されている既知なる風景と言えます。
では、どこまでもありふれている「郊外」的な故郷をありのまま写すことによって
川崎が試みようとしたことは何なのでしょうか。
寄稿文「鈍さの持続に向かって」において作家の堀江敏幸は次のように書いています。

「風景は一人称を希釈しない。むしろ自分が色濃く出る。そして自分が捉えた被写体の視線が投射される。
それは一人称の眼であって、そうではない。枯れ草や雪の残ったはずれの景色、不安定な足場から見上げた木々の
こちらに、べつの目がある。 姉がいる。母がいる。では、父はその景色のなかにいるのか。
むしろ、父からはじかれたものが周囲にあり、はじかれた存在を見つめることによって、
逆にその姿が意識されるような場を用意したということなのだろう。
夫婦が並んでいる写真も家 族の集合写真もない。基本は単独で、組み合わせは姉が横に立つときだけだ。
笑みはあっても、固くこわばったものはほどけない。
若い頃は、こういう緊張感のなかで家族を演じるのがきつい。
はじかれている自分をはじいている側に立たせないと、周囲に飲まれてしまう。
『光景』に顕在化しているのは、なぜここへ戻って来たのか(犯罪者のように)、
なぜここに来ればなにかが変わるかもしれないと感じたのか(一番底まで落ちたひとのように)、
なぜそういう行動をしている自分を許容できているのか(すでにそんな状態は過ぎたとでもいうかのように)、
といったいくつもの問いであり、それらがどれも宙づりになったままあちこちに散っていく。」

どこまでも平凡な故郷の風景を、長い時間をかけて淡々と撮影すること。
むしろそうすることでしか、これまで弾かれ、
語られてこなかった人々−−女性や子どもといったマイノリティの者たち--の「痛み」は語り得ないことを川崎祐は知っていたのかもしれません。
劇的なことも、出来事も起こらない。それにもかかわらず、この写真集は、私たちが生きている「いま」の時代に起こりつづけていること、そして私たち自身の問題を鏡となって鮮やかに写し出します。
従来の「家族」と「故郷」のイメージを刷新する新しい写真集の誕生です。