像が立ち上がることの愛おしさ  文 / 山内宏泰

 外界の光景が紙やモニター画面の上に浮かび上がり、像として定着される。それを持ち運び、いつでも好きなときに取り出して眺め楽しむ――。写真術が発明されてもう180年あまり、だれもが夢中になって繰り返してきたことだから、21世紀に生きるわたしたちにとってはそんなこと、あまりにも当たり前となっている。けれど。

 あらためて考えてみれば、眼の前にあるものがほぼ忠実なかたちのまま立ち上がってくるなんて、ほんとうは奇跡的なことだ。
ためしに、ことばで、ある光景や人物を生き生きと、あたかもそこにあるかのように描き出そうとしたら。満足のいくかたちで実現できる人など、めったにいない。よほどの文豪だって、じつは外界の描写はたいてい、至極あいまいなまま済ませている。絵画にしたって同じこと。写実的に描くのは洋の東西を問わず長らく基本とされてきたけれど、人が身に着けられる技量には限りがある。筆のタッチだけではたいして真に迫ることはできず、あくまでも本物っぽく見せるテクニックが歴史上蓄積されてきただけ。

 ひとつの風景を、ひとりの人物を、何かしらの表現によって「在らしめる」とは、かようにたいへんなこと。そこへいくと、写真はすごい。この装置を使えば、外界の似姿を、ボタンひとつで出現されられる。魔法みたいに。

そのことに、ぼくらは少し慣れ過ぎた。持ち歩くスマホですら、じゅうぶんすぎるほど精細に外界を捉えられるから、もういちいち驚いたりしない。写真が極限まで身近になったのはうれしいけれど、同時に、驚きを失ってしまってしまい、ということは原初的な悦びも失ってしまったのは、何とももったいない。

いまいちど、像が立ち上がることそのものの驚きと悦びを、思い起こしたい。そんな欲求に促されるようにして、富山義則と熊谷聖司は、古くて写りの悪い8×10インチのポラロイドフィルムを使って撮影を試みた。

富山は長年住み慣れた室内を。熊谷は東京の路地裏に、カメラを向けた。撮影して得られる像は、全体的にシャープさがなくぼやけているし、発色も想像通りにいかない。ところどころ、うまく像を成さないことだってある。

それでも、何かが写っている。そこが室内だったり、路地裏だったりすることはわかる。この時計に、あの自転車に、眼を留めたのだろうというのも、かろうじて見て取れる。どうにかこうにか忘却の淵から浮かび上がり、何とかぎりぎり存在し得た、像の数々。その姿は一枚ずつが、狂おしくなるほど愛おしい。

ほんのわずかな間ではあっても、こちら側に留まっていたい。消えていくのは受け入れざるをえないけれど、すこしだけでも痕跡みたいなものを残せたら。ふたりが写した像はどれも、そんな囁きを発しているかのよう。それはわたしたち自身が、内面のどこか深いところでいつも抱えている祈りとまったく同じ。
だれもが共有しているおもいにかたちを与える。それがこの『TIME AFTER TIME / TIME FOR TIME』で為されている。

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