相模湾に面した湘南・茅ヶ崎の浜の風景とそこにつどう人々を、重厚なモノクロで撮る写真集。

長く受け継がれてきた漁場は、サーフィンをする人々でも賑わい、そこに暮らす人々も朝に夕に海を見にくる。
漁師の貌に刻まれた皺。サーファーたちが波を見つめる眼差し。子どもたちの遊び。
入り交じり、再び点在していく生の時間を、豊かな階調のなかに留める。
自身もこの地に暮らす大門は、人が社会的な名前から解き放たれる「浜」での日々の出会いを、ひとつひとつ真向かいながら写真に収めた。

浜で名前を持つ者は少ない。
度々顔を合わせて話をしていても名前を知らない。
私が「サミー」と呼ぶ漁師がいる。
年の離れた友人から「サミー・デイビス Jr. みたいでしょ」
と紹介されたので、それ以来彼はサミーである。
浜で過ごしていると、名前など無くても、
自分が何者であるのかも話す必要など無いように思えてくる。
4年前、茅ヶ崎の海辺近くに移り住んだ。
茅ヶ崎の海というと湘南の華やかなイメージが浮かぶかもしれないが、
私が住むのは黒い砂浜、荒っぽい相州弁の飛び交う漁村のようなところである。
海から受ける恩恵は大きい。
魚が新鮮だ、景色が良い、といったことだけでなく
海がそこにあるというだけで生活自体が変わるのだ。
朝、浜へ行く。 浜へ行くと必ず知っている誰かに会う。
会って二言三言、言葉を交わす。
「明日は波が良さそうだ」とか「週末に大会があるから見においで」とか。
浜に行けば、誰かがいる。
誰かと会う約束をしているわけではないが、
皆、浜に導かれるようにしてやってくる。
ここで暮らす人は、皆それぞれの「浜」を持つ。
幼い頃「またあとで」と手を振るだけで、またいつもの公園で会えたように
身体的に誰かと繋がっていることのできる場が浜なのだ。
この浜の日常を、残しておきたい。
記憶をただ積み上げるように、でもかけがえのない日常を撮ることが、
この浜や、浜で出会った人々へのほんの少しの恩返しだと思っている。(大門美奈)